いま一番重要な政治的課題は生存権の保証である。労働状況は、そのことを、はっきりと示している。搾取は――声を大にして言うのも憚れるほど――のうのうと常態化している。しかし、問題の核心は生存の権利それ自体に存するのではあるまい。
社会は、人が単に生きるだけでも相当な負担を要求する。モラトリアムとしての子ども時代を過ぎたすべての人に労働することが求められる。だが、この生きるためという最低限の労働にプラスして、人は生きる目的を求める。ある人は知の欲求を満たすため、ある人は自らの表現を追求し、また、ある人は育児のために、自分の時間を割きたいと望む。
ここで重要なのは、低賃金の者が労働の場では、時間的にも不利な立場に立たされているということである。つまり、彼女/彼らは、単に生きるためだけに長時間労働に従事することで、自己の時間を失っている。時間を搾取されている。要するに生きる目的への通路が狭められているわけで、これにどのように対処していくかはアーティストにとっても大きな問題と言えるだろう。生存権は、生きる目的のためにこそ必要なのだ。
例えばビルの清掃業をしているアーティストは、清掃が生きるための労働であり、アトリエに帰れば彼/彼女はアーティストとしての仕事を行う。しかし、ビル清掃の仕事は低賃金であり、収入の道として時間的効率が低い。同様のことは非正規雇用社員の全体におおむね当てはまる。『人間の条件』のハンナ・アレント(Hannah Arendt)は人間の営為を労働(labour)、仕事(work)、活動(action)に分類し、「労働」は生存のための営為、「仕事」は表現行為、活動は公的に寄与する行動と定義したが、これを踏まえていえば、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)や新3K(きつい、帰れない、給料が安い)の労働に従事している人びとは「仕事」や「活動」を、「労働」によって圧迫されているのである。
では、このような状況は、どのようにして改善しうるのか。政治の空白が続く現在、政策的な救済は全く期待できない状況にある。それゆえ、ようやく非正規雇用労働者たちが直接的(非議会主義的)な行動に立ち上がりつつある。こうした状況にあってアーティストは、アーティストとして、この問題とどう取り組むのか。たとえば清掃業を不当に解雇された場合、アーティストとして戦うわけではなく――workとして自覚される営為が同時にlabourの意義を担うような大家名家のケースとは異なり――労働者の一人として戦うのは当然であるとして、しかし、立場としてはそうであっても、闘争の手法についてはアーティストとしての経験を生かすことが可能なのではないか。法廷闘争はともかく、デモ(それはたった一人でも可能である)や団交において、アートは――たとえば死を演じることで生の希求を表現するdie-inや、渋滞の道路を自転車で走行することでクルマ社会ひいては資本主義社会を批判するクリティカル・マスの行動にみられるように――アクティヴかつ有効な新手法を闘争において実現しうるのではないだろうか。そして、この手法という点で他のアーティストとの連携が図れるのにちがいない。
この連携を作り出してゆく営為は、公的な活動(action)にほかならないのだが、低賃金層は、そのための時間さえ労働によって奪われているのが現状である。では、どうすればよいのか。
試案としていえば、こうした闘争のためのアーティストのユニオンを実現することが有効なのではないだろうか。人生の目的たる仕事のために時間的、経済的ゆとりを得るための闘争、その闘争にかかわるアーティストの時間的、経済的必要を、いわば相互扶助的に満たすためのアーティスト・ユニオン(artist union)である。いうまでもなく、それは労働組合(labor union)ではない。仕事のための労働運動にかかわる「活動」(action)のための方法を創造する場であり、敢えて名づけるならば「活動組合」(action union)とでも呼ぶべきものだろう。それは、労働と仕事と活動とが立体座標のX軸、Y軸、Z軸のように交差する特異点なのだ。この特異点に立つアーティスト・ユニオンは、アートという自らの仕事を日常的に可能とする条件を得るための労働運動に、アートという仕事によって寄与することで公的活動を行うのである。
かつて1975年に吉村益信によって設立されたアーティスト・ユニオンは、行政と市場に対するアーティストの権利要求の運動であった。それは、アートの自律性を前提とする一種の労働組合だった。しかし、ここにいうアーティスト・ユニオンは、そのようなものではない。アートを労働運動の手段とすることが、アートそのものであり、また、アーティストの権利要求でもあるような在り方が、ここでは求められるのである。そして、おそらくは、このユニオンの組織原理もまたアーティスティックなものであり、それによって労働運動の目的もまた大きく見直されることになるのにちがいない。
正社員たちにもリストラの影が伸び、正社員という名の奴隷制度の実態が明らかになるにつれて、非正社員と正社員の連帯の可能性が伸長しつつある。こうした連帯は労働運動にとって、きわめて有効性に充ちているが、このような連帯は、ほんらい無くて然るべきものであることを肝に銘じておくべきだろう。アーティスト・ユニオンもまた然り。このようなユニットは、生の実質を形成する時間を搾取と疎外から取り戻すための緊急避難的手段にすぎないのだ。緊急事態は、しかし、現在の常態でもある。そのような意味で、アーティスト・ユニオンの結成は、アート・アクティヴィズムの実践にほかならないということができるのにちがいない。(澁谷朋恵)
2009年01月30日
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